佳日-かじつ-の日記

幸せになったことがないからこわい。でも、幸せになるためじゃなかったら、なんのために生きてるんだ! 複雑に考えがちな思いこみや常識について、ほんとうはどうだろう、と気づいたことをのせていきます。

小さい頃の習い事。

何かというと、自分をみつめるときに、「親」との関係がいわれるけれど、習い事との関係も自分の思い込みをつくったひとつだと気がついた。

 

私は3歳からピアノを習っていた。

 

友達のお家にピアノがあって、ステキな音がなったから、わたしも習いたいと言った、…のだと思う。

 

だから、習わせてもらった。

 

けれど、私は、練習する、という概念がよくわかっていなかった。

 

時間の感覚が、まわりの大人を基準に動いていたのだと思う。

 

放任主義の我が家は、私がピアノの習うとなってもとくにそれについてなにかサポートがあった記憶はない。

 

気がつくと次のピアノ教室の日になっていた。

 

練習をしていく、ということができず、先生の前でピアノを弾いて、当然、急にうまく弾くことができるはずもなく、いろいろと注意されて、帰ってくる。

 

帰ってきて、少し練習した、と思う。

でも次の日からまたまわりの大人の基準で動いていた。

 

これを繰り返していた。

 

このピアノの習い事で私が学習してしまったのは、

 

間違えてはいけない=楽譜どおりにひかないといけない

自分はできないという劣等感=全然上達しないから

 

 

…気がつかないうちに、そう思っていて、それをずっと他のことにもあてはめてしまっていた。

 

そうでは無い。

 

間違えてもいい。

そして、全然上達しなかったのは、たんに練習しなかったから。

 

練習しなかったのは、スケジュールがくめなかったからで、自分ができない子だったからではない。

 

まぁ、好きなら、放っておいてもピアノを弾いていた、のかもしれない。

だから、もともとピアノを弾きたいわけではなかったのかもしれない。

そういう判断を、小さすぎて、できなかった。

 

もしも、同じような経験をしている人がいらっしゃるなら、思い返して頂きたい。

 

小さい頃の習い事で、なにか、思い込んでしまったまま、まちがった認識をしていないか。